ディラン好きの日記

転がる石のように

「人に与える」ということ

 

私のおじいちゃんとおばあちゃんは二人暮らし。

おじいちゃんは85歳。最近はずいぶん弱ってきてしまったが、それでもほぼ毎日自分の設計事務所まで歩いているらしい。現役で仕事をしている。

おばあちゃんはもうすぐ80歳。色々と病気を抱えているが、その都度立ち上がってきた。今でも自転車を乗り回してどこでも行ってしまう。

 

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おばあちゃんは料理が得意。ほんとーに美味しいものをつくってくれて、私たち孫はおばあちゃんの飯を食べて育ってきたようなものだ。だから、私にとって母の味はおばあちゃんの料理のことも指す。

 

おばあちゃんはしょっちゅう料理を大鍋で大量につくっては、瓶に小分けにして5人いる子供の、各家庭に自転車で届けにきてくれる。

私の家に来るには、橋をふたつ超えなければならないし、坂も多いが、それでもおばあちゃんは自転車をこぐ。それをかれこれ10年以上続けている。

 

しかしこの10年でおばあちゃんも年老いてしまっている。大きな病気もしたし、明らかに足腰も弱ってしまった。

 

特に母は、そんなおばあちゃんを心配して

「自転車で転んで骨折でもしたら大変だから、もう持ってこなくて良いよ」

とおばあちゃんを諭すが、笑ってごまかして聞く様子はない。

今日もスープやおかずを詰めた重いビンを自転車のかごに入れて、おばあちゃんはやってくる。

 

 

病院に勤めていた頃も、私は患者さんからよく頂きものをされた。

リハビリ室から一緒に歩いて病室に帰ると、おもむろに冷蔵庫に手を伸ばし、ジュースやお菓子をくれる。

 

ある時はテッシュで包んだお金を、「お昼代にして」と渡してきた。

申し訳ないので2度3度断ると、今度は怒りだしてポケットにねじ込まれてしまった。

私は「すいません、ありがとうございます。」と言って受け取ることにした。

 

医療者は基本的に、患者から物やお金を受け取ることは禁じられている。だが、どうしても断れない場合は有り難く受け取り、物は個人が、お金は部署の経費として使わせて頂くことになる。

この患者さんは、お金が「私のもの」にならないことに気付いたのか、退院する時には靴下を買ってプレゼントしてくれた。

申し訳なく思いながらも、有り難く受け取った。

 

 

今は利用者の自宅に伺ってリハビリ(理学療法)をする仕事をしているが、

ここでも、色んな人が与えてくれる。

リハビリの後に必ずお茶を入れてくれるところ、お菓子を持たせてくれるところなど様々だ。

私達は規則として「受け取ってはいけない」ことになっているので一度は断るのだけれども、そのうち悲しい顔をされるので、お茶やお菓子は有り難くもらうことにした。

 

 

 

どうしてこんなに色々与えてくれるのか。

私は昔ながらの日本人の精神に理由を探そうとしたが、どうやらそれだけではなさそうだった。

 

人は高齢になると基本的に、「施される立場」に立たされることになる。

子育てで子供に多くを与えて、働いて社会に貢献してきたそれまでの人生から一転、

受動的に手伝いを受けることを社会から課せられてしまう。

多くは退職後、そして病気をした後に、高齢者はこのような転換を迫られることになる。

私のおばあちゃんも、病院で出会った多くの患者も、今関わっている利用者達も、

日々の生活の中で、どれだけ人に施す機会があっただろうか。

人間にとって、「なにかを与える」ことは、生きがいを得るには不可欠なことだろう。

それは「与えられる機会」が増えた多くの高齢者にとっては、いっそう大事なことだったのだ。

 

私達はおじいちゃんやおばあちゃんからなにかをもらう時、つい遠慮してしまう。

「いらないよ」

だがもしかしたらこの返事が、

貴重な「人に与える」機会を奪っているのかもしれない。

 

だから最初は断るにせよ、最後は喜んで受け取ってほしいと私は思う。

それはおじいちゃん、おばあちゃんにとって必要なことだから。

 

それにしてもおばあちゃん、

台風の日でも来ると言うのは勘弁してもらいたい。

でも私達の心配とは裏腹に

「来ないで」と言ったら、

自転車で転んで骨折するよりももっと高い確率で

元気なくなっちゃうんだろうなー