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ディラン好きの日記

転がる石のように

もしも元少年Aが電子書籍で自費出版してたら

 

いくつもの出版社に掛け合ってみたが、答えはすべてNOだった。

 「やっぱりな」

 

やはりあれほどの事件の当事者が本を出すなど、モラル違反なのだろう。そこまでのリスクを負う出版社などいなかった。

 

「やっぱ自費出版しかないかぁ」

 

 出版社に断られることなど、予想はしていた。出版社を通さなければならない紙の本では、たとえ自費出版にするのしても、断られる可能性の方が大きいだろう。

だから出版社に断られたら、最後の手段として電子書籍自費出版を考えていた。

 

 個人が電子書籍を出版するハードルは以前よりさがっている、というウワサは聞いていた。

でも本当に一人で出版などできるのか。不安がないわけではなかった。

 

ただひとつ、コンテンツには絶対的な自信があった。

 当事者である僕は、言わば他の誰にも無い経験をしている。自分にしか書けないものが確かにある。

 

僕にはこの話をどうしても本にしなければならない理由があった。

 

問題は文章力と編集力が僕にあるのか。

人間社会から拒絶された僕にとって、本は静かに、自分と対話をしてくれる唯一の存在だった。だからあれからたくさんの本を読んできたし、自信はないけれど、自分なりに書くことはできる。なによりも今は溢れ出す感情にペンをとめることができない。

構成も、色んな本を参考にしてやれば、なんとかなるのではないか。

 

一番ネックなのは、どうやって売るかだ。

 本を売る時に、出版社が担ってくれる仕事はあまりにも大きい。

せっかく書いた本が人に読まれなければ意味がない。

 

でも、僕はある意味有名人だ。しかも匿名の有名人。

「元少年A」「酒鬼薔薇聖斗

この名を使って、数あるネットメディアに売り込めば、

あっという間に拡散される、という可能性がないわけではない。

 

なにしろ僕には

どうしても本にしなければならない理由があるのだから

 

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※この物語はフィクションです

 

一連の騒動で太田出版がバッシングを受けてます。

 

太田出版がこのようなリスクを想定の上で、なぜ出版に踏み切ったのか。

 

もしどの出版社も取り合っていなかったら、どうなっていたのでしょうか。

 

 著者は、出版を諦めていたのか?

または別のかたちで発信していたのか?

 

 わかりませんが、“誰もが表現者の時代”という潮流は、もう止めることは出来ないし

どんどんそのための環境が整ってきています。

yamayoshi.hatenablog.com

 

自費出版してたら、

太田出版はバッシングされることはなかっただろうし

 

書店も、本を“置く”か“置かない”か、そのモラルを問われることはなかったでしょう

 

著者

 ↓

出版社

  ↓

書店

  ↓

読者

 

このような構造では、社会から問われる責任は分散されています。

 

でも、 “誰もが表現者の時代”では、責任は二極化します。

 

著者

    ↓

    ↓

    ↓

読者

 

今回の場合、著者である元少年Aが匿名であるがゆえに、いくらバッシングしても空虚感があり、特定できる太田出版が恰好の対象となっています。

 

でも仮に元少年Aが電子書籍自費出版していたら

著者は匿名、

マスである読者も特定出来ない存在

この場合の社会の怒り、バッシングはどこに向かうのでしょうか。

もしかして、セルフ・パブリッシングサービスを提供しているKindleが批判されたりするのでしょうか。

 

太田出版や書店にバッシングの波が向かっている現状を見れば、その可能性は否めません。

 

太田出版が出版を許可しようがしまいが、

『絶歌』は形を変えて世に出ていたのでしょうか。

そしてその場合の批判対象は、どこに向かっていたのでしょうか。

 

答えは風に吹かれています。