【NYひとり旅 回顧録7】マンハッタンの中心で、宿を失う。
青い空
白い雲
ここはニューヨーク。
誰もが憧れる大都会の摩天楼
わたしはここで、
宿を失っていた。
それは突然のことだった…
「Hey,Mr Dylanist.」
「Time has come..」
「Get out!」
私はすっかり忘れていた。5日間しか宿を取っていなかったことを。
ニューヨークに来て5日間、最初は恐怖心しかなかったけれど、曲がりなりにもNYライフを楽しめてきたところだ。
この宿では、2日目に韓国人の青年に話しかけられ、一緒にジョンレノンの記念碑を見に行って以降、色んな国の人と出会い、話をしたり、食事に行くことができるようになっていた。
宿屋の主人に「出て行け」と言われたのは、そんな矢先のことである。
すぐに延泊させてもらえないか交渉してみたが、
ム
リ
だめだった。
これだけむかついた「ムリ」はボボボーボ・ボーボボ以来だ。
こうして私は、マンハッタンの中心にスーツケースごと投げ出されてしまったのである。
しかし、考えてみれば
私はこうなることを望んでいたのではなかったか。
日本を出る前、小田実の『なんでも見てやろう』に感化されて、
寝る場所がなければ他人の家に転がり込み、ずうずうしく飯まで頂くような旅をしてみよう、と意気込んでいたのではなかったか。
用意されたレールの上を進み、与えられた課題だけをこなせば良かったそれまでの人生との決別を図りたかったのではなかったか。
だが想像以上に、明日泊まる場所がないという状況は気が気ではなかった。
私は、出発前の自分を呪った。同時に、私に余計な影響を与えた小田実のことも呪った。
私がとった行動は、一人でBARに入る
ではなく、マンハッタンじゅうの安宿に電話をかける、という哀れなものだった。
9月は繁忙期らしく、電話の返事はどこも
“Of course, NO” だった。
私の考えは相当に甘かったらしい。
途方に暮れた私は
気晴らしに陽気なカウボーイと写真を撮ってみたが、3ドルが吹き飛んで虚しさだけが残った。
仕方なく、街をうろつく。
街を歩きながら、私は考えていた。
小田実だったら、古びたBARにでも入るのだろう。BARの客は珍しい東洋人に興味本位で声をかけ、すぐにそいつと打ち解けてしまうだろう。
そして別れ際にこう問いかけられるのだ
「今日はどこへ帰るんだい?」
「まだ決めていない」
「それならうちへ来るといい。歓迎するよ」
これは言い訳かもしれないが、今は時代が違っていた。
60年代には多かったであろうマンハッタンの下町的な雰囲気はもうそこになく、冷たく強大な大都市へと変貌していた。当時は珍しかったであろう東洋人も、今は街中に溢れ返っている。
やはり誰も私に見向きをする人などいない。
私はすっかり自信を失ってしまい、到底一人でBARに入る勇気など持てなかった。
マンハッタンの景色が、また暗くなって見えた。
ヘトヘトになって歩き疲れた果てに、私は駅に行き着いた。
「最悪、ここで野宿かな…」
疲れていたこともあって、もうどうにでもなれという気になっていた。
静かに目を閉じたその時 、
「おーい」
図太い男の声がした。
「おーい、そこでなにしてる!?」
きっと警備員だろう。私はここから追い出されるのだろうか…
やめてくれ、私には行く場所がないんだ…!
「ねえ、なにしてるの?」
肩を叩かれ、目を開いたその先にいたのは、友人Sだった。
つい先日、セックス・ミュージアムに一緒に行ったばかりの友人だ。
私は泣きつくように、Sに事情を話した。
「なーんだ、そんなことなら俺んとこ来れば?」
「え?」
「確認してみないとわからないけど、多分大丈夫だよ」
「いいんですか?」
「とりあえず今日、俺のホームステイ先に夜ご飯食べにおいでよ」
郊外に位置するそのお家は、素敵なご夫婦にかわいい男の子と女の子の4人家族で、突然の来客であった私のことも、快く受け入れてくれた。
とにかく絵に描いたような素敵な家族で、NYの一般家庭の暮らしぶりも拝見できたのは貴重だった。
人種のるつぼと言われるアメリカだが、制度面では壁が壊されてきていると言っても、潜在的差別はまだまだ多いと聞く。
それは黒人だけでなく、黄色人種に対しても例外ではない。
だからアメリカの中上流家庭では、積極的にホームステイを受け入れ、幼少期からファミリーの一員として触れ合わせることで、差別意識をなくそうという取り組みが教育の一環としてなされることが多いそうだ。
突然来た赤の他人の私にも、子供達がフレンドリーに接してくれたのには涙が出た。
夕食の場で、私がホームレスであることを友人が打ち明けると、
「それなら残りの滞在期間はずっとうちに居ればいい」と言ってくれたご夫婦。
この言葉に甘んじ、結局残りのNY滞在期間をお世話になってしまった自分の甘さを恥じたい。だけれど、私はひとりではとても生きていけない。ちっぽけな存在であることを知り、恥じらいながらも生きていくこともまた、“なんでもみてやろう”ではないかと思うのだ。私を救ってくれた友人Sやホームステイ先の家族には感謝してもしきれない。
こうして私はなんとも生ぬるい方法で、
他人の家に転がり込み、ずうずうしく飯までいただくことになったのである。
これが1960年代、金も宛てもなく、行きずりの旅をするしかなかった時代。
知性とバイタリティを頼りに世界中を旅した小田実が成し得なかった、
平成世代の“なんでもみてやろう”の姿なのだ。
コネをこねくり回し、他人にすがり、それでも私は生きていく。
いや、生きてやるのだ。
(つづく)