【NYひとり旅 回顧録9】マンハッタンの街角で見つけたアート達
こんばんは、ディラン好きです。
世間では今日でシルバーウィークが終わるみたいですが、
日頃から65歳以上を相手にしている私は
明日からも永遠にシルバー・ウィークなので泣いて喜んでおります。
祝日も仕事の私は、祝日の予定を血眼になって埋めなくて済むから楽です。
— ディラン好き (@dylan_zuki) 2015, 9月 21
今日はマンハッタンの街角で出会ったアートを紹介したいと思います。
マンハッタンには世界3大美術館のひとつ、メトロポリタン美術館を筆頭に、ニューヨーク近代美術館(MOMA)や、アメリカ自然史博物館など、世界有数のアートの名所が集まっています。
これら3つの美術館にはもちろん足を運びましたし、泊まっていた場所がチェルシー地区にあったこともあって、無料で入れるギャラリーをぶらぶらと巡ったりもしました。
私、アートに詳しくはないんですが、美術館という場所が昔から好きです。
絵が好きってのもあるんですけど、誤解を怖れずに言えば、自分と話してる時間が楽しいんだと思います。
美術館って半ば強制的に自分と対話しなければならない場所じゃないですか。
館内では静かにしてなきゃいけないから、嫌でも自分と話さなくてはならない。周りのみんなもそうだから、自然に自分と会話する世界に入れるんです。
ひとりで背景を想像しながら、時には絵にツッコミをいれながら自分と会話している時に、今まで表現できなかった感想が言葉に浮かんだときが、たまらなく楽しい。
それこそ自分の世界に入り込んで、アドレナリンがすごい出てる感覚。
しかも他人の目を気にしなくていいから(周りもみんな自分の世界に入っているから)そんな状況は、非日常的な快楽を与えてくれます。
だから私は自分が本気で行きたい美術館はなるべく一人で行きたいし、誰かと一緒に行ったとしてもひとりで回る時間が欲しいと思っています。
私は幼少期、あまりにもシャイすぎて人と全然話せなかったんですよ。
親戚の家で集まりがあっても、人形みたいに動かずに座ってるしかなくて、早く終わんないかなってずっと思ってました。
人と話さない代わりに誰と話してたかというと、自分と話してたんです。
口には出さないけれど頭の中では色々と思ってました。
小さな頃は空想癖があって、授業中とかよく空想して、「ぼけーっとするな!!」と先生によく怒られていました。
極度のシャイは小学校高学年になる頃には解消されてきたんですけど、
頭の中にいる自分と会話する感覚は今もあって、時々一人の時間が欲しくなるのも、自分と会話するのが落ち着くからなんでしょうか。
話が遊戯王みたいになってきたので話を戻します。
マンハッタンはこのような展示場だけでなく、街全体をアートにしてしまおうという気概が見えます。歩いていると色んなところでアート作品に出会います。
これはMeatpacking Districtにあった高架下の絵。ブタなのか牛なのかわかりませんがミートってことでこのデザイン。
絶妙なバランスで立つ巨大なキューブ。オフィスビルが立ち並ぶところにも急にこーゆうのが出てくるからびっくりです。
ブロンズの見ザル、言わザル、聞かザル。ここNYにも居ました。
こーゆう遊び心のある公園はいいですね。この中でペンキを塗られた人間は誰でしょう。
これはハーレム地区にあった壁画。なんかコスモポリタニズム的な世界観を感じる。
これは個人的に一番好きでした。実際はカメラに納まりきらないくらい大きな壁画です。少し落書きされている箇所もありますが、それも含めていい感じ。色鮮やかです。
【番外編】
マンハッタンという街は不思議なもので、それがアートとして見せていないものでも、アートと感じさせてしまう風景に度々出会いました。
このただ無機質に並ぶビルも、
NYでよく見かける煙が出る煙突も、
私はアートだなぁ、、と感じてしまったわけです。
上の6つの写真はそれがアートであることを前提として、存在しています。
だから誰が見ても、「ああ、アートだ。」となります。
でも、このビルや煙突の写真はアートでもなんでもありません。
ただの風景です。
特に現地の人にはアートとしては映らないでしょう。それが日常的な建造物としてインプットされているからです。
これを私がアートだと感じたのは、私の主観的な感性に寄っています。
それがNYに対する憧れから来てるのか、なんなのかはわかりませんが、私ははじめて見るこれらのものに対して、「建造物」以外の価値を見出したことになります。
マルセル・デュシャンの便器の話がありますが、これも便器は道具でアートとしての価値がないから、最初は猛烈に批判されたのでしょう。
でも、デュシャンの「アート作品がなぜハンドメイドでなくてはならないのか?」という問いは、後に前衛的な人々に支持され、便器が便器以外の価値を持つようになります。これが現代アート界の常識を覆してしまったというのですから、主観的な感性とか主張とかって大事にしてみるもんだなーと思います。
私が撮った煙突の写真を、アートだと思わない人は多いでしょう。それは、煙突がアートとしてではなく、ただの設備としてそこに存在しているからです。そこに、後から私がやってきて勝手に「アートだ!」と叫んだから「いや、それは違う」となるのです。
でも、自分の感性を認めてくれる誰かが、「その考えもありかもしれない」と言い、これも「アート」と認めはじめると、だんだん「確かに、アートかもしれない」と思いはじめる人が現れて、「アート」として賛否が生まれるわけです。
自分のつくった概念の上に人々が賛否を議論するのですから、その分野のパイオニアとなります。
世の中の変化というものは、
これはアートだ!
↓
いや、違う
↓
もしかしたら、アートなのかもしれない
↓
これは新しいアートだ!
これを繰り返している気がします。
つまり、元々ないものに新しい価値を見いだすその主観性が、新しいものを生み出す人には必要だし、ほとんどの人はたぶんその主観性を持っているのだけれど、ブームに乗る側に回ってしまう。
それくらい何かを生み出すのは大変で、フォローするのは楽ということなんでしょうね。
もし私が何かのイノベーターになりたければ、自ずは主観性を大事にしなければならないし、それを主張し続けなければならない。ということになんでしょうけど、説得力もカリスマ性もない自分にはブログってほんとちょうど良いなって思います。
ブログって、見たくない人は見ないって選択ができるし、興味を持ってくれる人は見てくれます。
デモに参加する気も、演説をする勇気もなくても、しゃべりが下手でもちゃんと主張できる場というのは、それだけでありがたい。
このブログは炎上に縁がない(まず多くの人に読まれていない)のでわからないですけど、どうやら批判的なコメントが来てもブロックできるみたいだし(笑)
↓
気軽に自分の主観的な主張を、ここでしていけばいいのかなと
マンハッタンの街角アートを見て、そんなことを思ったのでした。
街角アートを紹介して終わるつもりが、だいぶ話が逸れてしまいましたが、
いつものことなので許して下さい。