僕は生活保護を受けていたかもしれなかった。
私の父親は、まだ私が幼かった頃に、脳幹出血で倒れた。
脳幹という場所は呼吸、覚醒、自律神経の中枢である。
不運にも父は、生命維持において最も重要な場所に、脳出血を発症してしまった。
手術の適応もなく、家族はただただ黙って見守っているしかない。それは実に無念で、悔しいことだった。
ある日、私は先輩に同行して新たな利用者の家へ向かった。
そこでは奥さんが、若くして倒れた夫の介護をしながら生活する。
ご主人は寝たきりで、介護保険サービスを使いながらなんとか在宅生活を継続していた。訪問リハビリもその内の一つだった。
同行する時にはいつも、カルテから事前に情報を得ている。
いくつもの疾患を目の当たりにしてきたけれど、「脳幹出血」という病名には、どこか特別に反応してしまう。私は例の如く一瞬ドキッとして、カルテを閉じた。
実際にみた利用者の顔は、倒れた後の父によく似ていた。
父が生きていれば、年齢も同じくらいかもしれない。脳の病気によって長年寝たきりでいる人の顔は、どこか似てくるものだ。
二人で暮らしているのか尋ねると、息子がいるのだという。年は私と同じくらいだそうだ。その時は仕事に出ていた。
この時私は、はっとした。この状況は、、。
重度の脳幹出血の場合、基本的には付きっきりで介護をすることになる。
自力で痰を出せないご主人には、痰で気道を詰まらせてしまわないよう、或いは肺炎を起こさないよう、こまめに吸引してあげる必要がある。
外出できるのは、訪問看護を利用している時か、他の家族が家に居る時だけだ。
デイサービスなどの一時的に預かってもらえるものは、重度の疾患の場合は利用できない場合が多い。受け入れる体制が整っていないからだ。
家に居るか、或いは状態が悪化して入院するか、2択しかない。
もし私の父が生きていたなら、
このお宅と同じ状況だったのかもしれない。
母が寝たきりの父の介護をしていただろう。
そうなれば、母は仕事を辞めなくてはならなかっただろう。寝たきりの父を置いて家を空けることなどできないのだから当然だ。
収入がなくなる。そしたらもう、私達は生活保護を受けることになっていたのかもしれない。
或いは、私が定時制か通信課程の高校に通って、父の面倒を見ていたのだろうか。それかアルバイトに明け暮れていたのかもしれない。そう考えると、今とはまったく別の人生を歩んでいたように思う。
それは自分とはちょっと遠い世界のことだと思っていたけれど、このご家庭の状況を見た時、それは意図せず身近なものになった。とは言ってもこのご家庭は生活保護を受給していないのだが。
同行した先輩は、奥さんの頑固なところをぼやいていたけれど、
奥さんにとって、在宅で看ていくという覚悟は相当なものだ。
今までやってきたことへの自負は当然ある。
私の父が倒れたとき、父の祖母の想い、そして私の母の想いは相当なものだった。
それは時に的外れに思えることであっても、強い意志が伴っていた。
それぞれ“我が息子”として、“我が夫”として、各々強い想いを持っている。
間近で見てきた私には、それがわかる。
奥さんのご主人に対する想いも、きっと強いものだろう。それは多少神経質になっていてもおかしくはない。
私の父親は医者に驚かれる程の奇跡は起こしたけれど、ずっと生き続けることはできなかった。父親の病巣は、このご主人よりもたった数センチ大きかったために、父は亡くなり、このご主人は生きている。その差はたった数センチ。
たった数センチの違いだけれども、この紙一重の差は大きい。
私が生活保護を受けるかどうか、その違いは紙一重だったのだと思うと、それは実感を伴ってくる。私が保護を受けずに済んだのは、母が働いてくれたからだ。
実際にそのような状況になっていたら、親戚が助けてくれたかもしれないし、祖母と祖父が一緒に住んでくれていたかもしれない。だけどそんなことは今はどうでもいい。
この紙一重の向こう側にいる人のことを、私達はよく知らない。
どんな状況なのか、どんな事情があったのか、よく知らないでいる。
よく知らないまま、あれこれ議論している時がある。
動かぬ父を前に、無念を噛みしめることしかできなかった私にとって、
このご主人が自発呼吸を取り戻し、呼びかけに頷いてくれることに私自身が救われた気持ちになる。2年の間この生活を続けてきた奥さんにも拍手を贈りたくなる。
なんとかその希望を絶やさないようにするのが私の務めだ。
無知は罪だ。
無知は、罪だ。