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ディラン好きの日記

転がる石のように

【感想】『学校Ⅱ』にみる教育のジレンマ

雑感 レビュー・感想

 

 

幼い頃に見た山田洋次監督の『学校』シリーズ。

特に『学校Ⅱ』が印象的なものとして私の記憶に残っていたのですが、

はて、あの映画は結局なにを言いたかったんだっけ?と

急に気になったので、改めて観てみました。

  ※これからこの映画を観てみようという人は、ネタバレ注意です。

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舞台は北海道の高等養護学校

主人公のタカシと同級生で重い障害を持つユウヤが、卒業を間近に学校から脱走するシーンで始まります。

西田敏行演じるベテラン教師の青山竜平(りゅう先生)が、ユウヤの担当教員である新任の小林大輔と、この2人を追いながら生徒の成長を回想していく物語です。

 

吉岡秀隆演じる主人公のタカシは、軽度の知的障害があり、中学時代のいじめをきっかけに人と話すことができなくなってしまいました。そんな経緯があって、タカシは母親に連れられて高等養護学校へ入学することになります。

クラスにはそれぞれに障害を持った同級生がおり、個性的な面々にタカシは出会います。その中でも特に目立つのが、重度の知的障害を持つユウヤです。

このユウヤはいわゆる問題児として描かれており、習字の授業中に墨をぶちまけたり、隣に座っている同級生の給食をぐちゃぐちゃにしてしまったり、暴れだしたら先生達でも手に負えません。

同じ部屋で寮生活をする主人公のタカシも、何度もユウヤのいたずらに遭ってしまいます。タカシの唯一の楽しみは大好きな車の雑誌を眺めることですが、静かに雑誌を眺めてるとユウヤがやってきて、それをビリビリに破いてしまいます。それでもタカシは言葉を発することができず、ただただ耐える日々が続きます。

 

 そんな問題児、ユウヤの指導教員として、新任教師の小林大輔(永瀬正敏)が担当することになります。

若さと正義感溢れる小林先生は、ダメなものはダメ!という信念のもと、体当たりでユウヤを教育しようとします。しかし、どんなに手を尽くしても、規律に従わせようとすればするほどユウヤは暴走してしまい、それに振り回される小林先生は身も心もズタボロになってしまいます。

 そんな折、小林先生は先輩のりゅう先生(西田敏行)にユウヤのことでアドバイスを求めますが、「そんなこと僕もわからないよ。手探りでやっていくしかない」と言われるばかりです。これはある意味的を得たアドバイスだと思うのですが、新任の小林先生には酷な話でした。

 

ある日、授業中にユウヤが大暴れしてしまいます。それは自分のクラスだけに留まらず他の教室に入っては、ひとしきり暴れ回り、また別の教室でやらかすといった具合でした。いつものようにユウヤを止めに追いかけっこをした小林先生ですが、ユウヤがコピー室の紙をビリビリに破いて遊んでいるのを見て、ついに痺れを切らします。

ユウヤを怒鳴りつけてしまったのです。

そこに応援にやってきたりゅう先生が、小林先生を注意します。

「君のやっていることは間違っている」と。

 

小林先生は、この時点で心身ともに限界がきていました。

本当は普通学校の教諭を志望していたこと、毎日臭いクソの処理と追いかけっこをするために教師になったのではないことを、別の先輩教師(石田あゆみ)に吐露するのですが、案の定、「そんな人が同じ職場にいられると困るのよ」と一喝されてしまいます。

 

小林先生のすごいところは、それでも辞めずに続けていくところでしょうか。

小林先生はその後も必死にユウヤに付き添っていくのですが、集団生活と規律に押し込めようとすればする程、ユウヤは反発してしまいます。

対してベテランのりゅう先生(西田敏行)は、ユウヤの気持ちを大事にしようとします。ユウヤが大量のコピー用紙を破り捨てることに夢中になっていれば、ユウヤと一緒になって破ります。

「ユウヤは今、これをすることが楽しくて仕方がないんだよ」

と無理に止めようとしません。無理に止めさせようとすれば、さらに心を閉ざしてしまうことがわかるのでしょう、さすがはベテランです。

 

ここまで観たところで

私がもったいないなと思ったのは、

新任の小林先生は、ユウヤをなんとかしようと一生懸命なのに、それがゆうやにも先輩教師にも伝わっていないことです。

一生懸命になればなるほど、裏目に出てしまっているのです。

こーゆうことはどんな分野でも「新人」によく起こります。

私自身も新入社員の頃に経験したのですが、一般論とか道徳に押し込めようとすると上手く行かないことに必ずぶち当たります。

なぜそうなってしまうのか、その時の心境を思い返してみると、

 それは恐らく「言い訳ができるから」ではなかったか、と思います。

どうしていいかわからない時でも、道徳的、とかマニュアル的に「〜であるべき」ことをすれば、例え上手くいかなかった時でも言い訳ができます。

小林先生の場合それは、「学校教育とは集団生活の中での規律を学ぶこと」

という道徳であったのかもしれません。

反対に、自分の考えで通常の流れと異なることをして、その結果失敗してしまったら、言い訳ができません。そこまでのリスクは背負えないというのが新人の本音でしょう。

 

企業においては、新人教育システムというものがしっかりしている印象があります。

それ無駄じゃないの(?)っていうくらい長い期間を新人研修に充てますよね。

それはそれで問題点があるのかもしれないけど、教育とか医療とか、所謂「現場仕事」の分野では、そこらへんが甘いような気がします。

自分が大変だった新人時代は過ぎてしまえば良い思い出で処理してしまい、振り返ることは稀です。組織的に見直すということがない。そうなると「1年目は大変なものだ」とか「あれがあったから成長できたんだ」と経験を積んだ人間は思い込み、苦行を後輩にも求めることになってしまいます。

「現場から学べ」という風土が昔からあると思うのですが、それは人材が不足している場所では合理的だと思いますし、実際にほとんどのことは現場から学ぶわけです。映画中の養護学校も恒久的な職員不足でした。

しかし人材が不足しているからこそ、もうちょっと(新人の)教育方法を考えても良いのではないかと思います。それは早期離職の歯止めと成長スピードを上げる意味で。

少しずつそういった部分に取り組み始めている教育機関や施設もあるみたいなので、その流れが進んでいけば良いなと思っています。

 

言い訳をするということは、そうしなくてはならない組織の雰囲気があるということです。「べき論」しか持ち出せない思考停止の人材を育てるのではなく、こと「教育」に携わる分野においては、「ちょっと自分なりにやってみろ、失敗しても良いから」と言ってくれる上司がいることがどれだけ有り難いか。

「個別性」の強い養護学校教育において、そのような人材が増えることは教育を受ける側にとって大きなメリットです。

小林先生に必要だったのは、そういったフォローだったのかもしれません。

 

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と、ここまで“教育者の教育”について書いてきましたが

実はユウヤを変えたのは、良き理解者である、ベテランのりゅう先生でもありませんでした。

ユウヤを変えたのは、もの言わぬ主人公、タカシ(吉岡秀隆)です。

ユウヤと同じ部屋で共同生活を送るタカシは、毎度ユウヤのいたずらに無言で耐え続けていました。

しかしある時、いつものように授業中にユウヤが暴れだした時、それまでひと言もしゃべらなかったタカシが大声でユウヤを叱ります。

その瞬間、教室が静まり返ります。

「タカシの声、初めて聞いた…」先生達も目を丸くしています。

するとこの声を聞いたユウヤが、素直に席に付き、勉強を始めたのです。

 

不思議なことに、それからはユウヤがどんないたずらを始めた時でも、タカシの言うことは素直に聞くようになります。

この映画の中でユウヤを成長させたのは、教師ではなく生徒のタカシでした。

精神科には集団療法という治療法がありますが、

他者からの影響は、同じ立場の人間だからこそ説得力があり、素直に受け入れやすいのです。集団というのは、独特なヒエラルキーの産生とともに、“切磋琢磨”という相乗効果を発揮する場合があります。これはピア・サポートと呼ばれ、いわゆる自助グループも同じ目的を持って構成されます。

 例えば共同部屋の病室では、同じような病気を持った人が集められることがりますが、これは業務の効率化とともに、患者同士の励まし合いの効力を期待したものです。

私の経験上、同じ病室内でのグループの連帯感が持つ力は、患者のモチベーションに大きく関与するように思います。

タカシがユウヤを変えたように、

教育をする立場にある人間は、生徒同士、或いは患者同士が持つ力を活用すること、

それを選択肢の一つとして持っていたいところです。

 

私が『学校Ⅱ』を観て感じたのは、①教師対教師、②教師対生徒という二つの側面における教育のジレンマでした。