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ディラン好きの日記

転がる石のように

性善説から生まれた?日本的「空気」の正体とは

 

dylan-zuki.hatenablog.com

先日、とある職場にはびこるムラ社会の物語を書きましたが、もう少し学問的に日本的”空気”というものを知りたいと思い、積ん読してあった、山本七平氏の『空気の研究』を読みました。 

今回はその感想とまとめという形で、「空気が読めない」というときの”空気”、「あの場ではそんな空気じゃなかった」という時の”空気”、それらの正体を振り返ってみたいと思います。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 

 そういえば去年は戦後70年ということで半藤一利氏の『昭和史』を読んだのですが、著書の中でよく登場したのが、

軍部会議の中で非常に論理的に、マトモなことを述べた者の意見が驚くほど自然に無視され、なんの根拠もない ”感情論” が議題の決定権を掌握していく様でした。

それはまさしく場の”空気”の力であり、半藤氏も第二次大戦における失敗の本質としてこれを挙げているのですが、私はこれを読んだ時から、日本的 ”空気” の存在に関心を抱いていました。この『昭和史』や『失敗の本質ー日本軍の組織論的研究』、そして今回取り上げる『空気の研究』は昔からビジネスマンによく読まれているそうです。それは戦時中の軍組織の失敗が、会社組織においても共通点が多く、大いに参考になるからでしょう。規模の違いはあれ、基本的に「組織」というものには、”空気” が存在し、それが時に論理的な判断を超えて大きな力を持つことに、皆心の中では気付いています。そしてこの 日本的”空気” は戦後、敗戦を招いた元凶として、時には競争の足枷として、論じられていくことになります。欧米を見習い、人々は効率・論理重視の組織作りを目指してきたように思います。しかし、日本人の根幹にある性質は、やはり変えられなかったと言っていいでしょう。国会でも会社でも学校でも、未だ ”空気” というものが、場の決定権を左右しています。

 

『空気の研究』の中で著者は、「日本的儒教精神」を研究の出発点としています。

古く中国から伝わった儒教は、人を思い遣ること(仁と呼ばれる)を最高徳目とし、親子の関係の中で、「礼」を重んじるという精神があります。

面白いのは、儒教は仏教とは異なり、宗教という認識が薄く、当時の知識人は「儒学」という一つの学問として、『論語』を読んだそうです。そうして広まっていった儒教精神は、村という共同体の中で、親子間だけでなく隣人のような他人を敬う態度としても浸透していきます。そのうち「地主」対「農民」のように、統治する者とされる者という、上下関係が生まれ、明確に身分が分けられていきました。個人は組織に対して絶対的な忠誠を持たなければならないという倫理観が生まれたのは、おそらくこの頃です。江戸時代にあった「五人制」などの連帯責任制度は、地主というタテの関係と、隣人というヨコの関係をついていて、日本的儒教観を上手く利用したものと言えます。

つまり日本的儒教精神とは、

本来の儒学における親子間の「義」「礼」が、組織対個人という関係において拡大解釈されてきたもの、と山本七平氏は定義しています。


他方、儒教には孟子の提唱した「性善説」という考え方があります。
これは簡単に言えば、人間には生まれながらに善いことをしてしまう素養が備わっていることを示す思想です。この性善説は、元来人間には悪いことをする素養がないため、異常な行動には、そうさせる外部の力が働いている、つまり、そうさせる情況があるに違いないとする考えに繋がります。

この情況こそが、端的に”空気”を指すのだと著者は述べます。
しかし情況を判断するためには、「基準」を設ける必要があります。戦時下の日本においてそれは、現人神としての「天皇」であったし、現在では管理者、上司、親となるのです。

基準となった対象は絶対視され、その他は平等な立場となると、意思決定の根拠は、言葉そのものの指す善悪を超えて、基準となった対象の意思に従わざるを得ない。つまり絶対的な基準は我々から「超越したもの」であるから、その論理性は問題ではない。仮にその論理的矛盾を指摘する者がいるなら、その人は”空気の読めない者”として排除されることになる。
『空気の研究』より抜粋


孟子以後、性善説を否定する形で荀子という人が『性悪説』を説きました。キリスト教が根付いている西洋ではどちらかというと、アダムとイブの原罪を人は背負って生まれるのだという、『性悪説』寄りの考え方が根付いています。
そのため、キリスト教では絶対的教典として聖書が、イスラム教ではコーランが存在し、”性根の悪い”人間を律するための、規律を設けているのです。

 

私が面白いと思ったのは、論理的なものと対極にあると思える宗教によって、人間は論理的行動をとるようになる、というアンチテーゼです。

キリスト教では聖書の内容が人々の行動の基準となっていて、それは管理者と違って考えが変わったりしない、不変不動なものですから、”空気”といったものに判断を流されません。論理性を武器に自分で決断しなければならないのです。

対して日本ではアニミズムから始まり、神道のように、抽象的なものが信仰の対象になってきました。そして近代以降は、生きている人を”聖書”のようにしてしまったので、言われるがまま、従うしかない状況が生まれた、つまりこれが、論理的な判断を超えた大きな力を持つ、日本的 ”空気” の正体ということなのです。

儒教が学問として伝わったというのも面白い点でしょう。おそらく儒教が宗教として広まっていたなら、『論語』が人々の絶対的な基準となっていたかもしれないのですから。

 

そう考えると、一昔前に「空気の読めない人が増えてきた」という論調が盛んになった時期がありましたが、それは、それだけ欧米文化が日本に浸透してきたことの証明だったのかもしれません。その時は否定的な意味合いであった「空気が読めない」という言葉も、今では肯定的な意味合いをも持つようになっています。例えば帰国子女のような日本的" 空気 ”を知らない人が、日本社会でどんどん活躍していくのを私たちは見ていますし、インターネットで表現方法が多様化し、注目を集めるのは、良い意味でも悪い意味でも「空気を読まない」人達なので、「空気が読めない人」から、あえて「空気を読まない人」を目指す人が増え続けるでしょう。逆に、欧米で ”空気” が生まれるかもしれません。グローバル化とはつまりそういうことだと認識しています。

 

とはいえ、いくら”空気”の存在を否定しようと、日本人の根本的な性質は変えられなかったと冒頭に書いたのは、日本的 ”空気” の良い側面、つまり調和と集団倫理が日本人の美徳として揺るぎないからです。

日本的 ”空気” の良い側面は、間違いなく存在します。それは災害時などの非常事態だけでなく、高度成長期の企業の躍進を支えたのは、ある意味で日本的”空気”だったのかもしれません。予測できないことが前提の未来に対して、集団は一つのルールを創って、それに従い進むことで不安を解消する。これが、人間が集団を作る一つの理由だと著者は述べています。つまり日本的 ”空気" は良いか、悪いか、という議論ではなく、性善説の立場からそうせざるを得ないのだし、組織対個人に拡大解釈された「日本的儒教精神」によって、受け入れられた結果に過ぎないものだと、

最後にこの”空気”の正体をまとめておきます。

 

今の私の関心は、空気の存在しないと言われるアメリカなどの欧米企業では、どのように組織運営を行っているのだろう、ということです。個人主義と組織をどう一体化させているのか、これはもしかしたらインセンティブとかの話に繋がるのかもしれませんが、わかりません。次はその方向の本を読んでみようと思います。