ディラン好きの日記

転がる石のように

【感想】映画『オン・ザ・ロード』、ボブディランが愛した退廃

 

ボブディランが影響を受けたという小説『On The Road』

その映画版を観たのだけど、これは映画を観ただけでは消化しきれない、という気がしている。だがひとまず、映画を観た上での感想を残しておきたいと思う。

※ネタバレを含むので、これから映画を観ようと思ってる方は注意して読んでいただきたい。

 

ニューヨークシティ、やがて私の運命を決定することになる街、悪徳と墜落がはびこる現代のゴモラ。私はそこで、ひとつ目の入り口を叩くことになるが、初心者ではなかった。

『ボブ・ディラン自伝』より

 ボブディランはミネソタ州育ち。

1950年代後期から60年代初頭にかけてのアメリカ・ポピュラーミュージックは彼にとって退屈なものだった。それは戦後の祝賀ムードを引きずったような楽しいだけの空虚なもの、いわゆる商業主義的なものに、ラジオから流れる音楽は支配されていたという。ディランはそんな時代に、毒いっぱいの辛口フォークソングをやっていた。

1957年、ジャック・ケルアックが小説『On The Road』を出版、これを読んだディランはミネソタを離れることを決意する。後にこの作品は、彼に「最も影響を受けたもの」と称されるようになった。

何がそこまでディランを動かしたのだろう。

若きディランが憧れたもの、それはニューヨークの退廃ではなかったか。私にはそんな気がしてならない。ニューヨークに漂う「退廃」が彼を突き動かしたのだ。それは、私が小田実の『なんでも見てやろう』を読んでニューヨークを目指したのとは、違うようで似ている。小田実がNYへ降り立ったのは1958年。私は自分の旅に60年代NYの幻想を見た。ボブディランがニューヨークへ来たのは1961年。ディランもまた1947年のニューヨークの幻想を見たに違いない。

 

 

その日暮らしへの憧れ

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舞台は1947年のニューヨーク。主人公は作家志望の男で根は真面目だが、父親の死をきっかけに気を病んでしまう。小説を書こうにも筆が進まず、虚無感に苛まれる中、友人からある男を紹介される。

その男はディーンと言い、少年院から出たばかりの破茶滅茶な男だった。主人公は次第にこの男の生きかたに惹かれ、ニューヨークのアンダーグラウンドな世界に身を落としてゆく。主人公はディーンや他の友人とともに黒人街でジャズに熱狂し、ハシーシを吸い、酒に溺れる。それは「作家」という未来のための勤勉な生活とは正反対の、熱狂的で、彼にとっては生きた心地のしたものだった。

間も無くして、ディーンは婚約者のいるデンバーへ帰ってゆき、他の友人も彼について行ってしまった。ディーンは不思議な魅力を持った男だった。彼について行けば、何か面白いことに巻き込まれるような予感をさせる男。主人公はニューヨークを離れることを躊躇していたが、結局ディーンからの誘いの手紙をきっかけに、ずっと憧れていた西部へ一人、旅立つことになる。こうしてオン・ザ・ロードの物語は始まるのだ。 

 主人公が育った環境は、そこそこ裕福で、親から大切に育てられたことが伺える。保守的で堅実な家庭だ。度々描写される、ディーンに良い感情を抱かない母親の表情が印象に残る。このような環境の中で、将来の期待に応えるための生きかたを、主人公は選択してきただろう。真面目な友人と付き合い、真面目に本を読み、真面目に文章を書いてきた。しかし、父親の死をきっかけに「死」というものが身近なものになったことで、自分の生きかたを再考せざるを得なくなった。

このような主人公の悩みを救ったのは、まじめな友人の精神分析的な屁理屈ではなく、”今を生きる”ディーンの姿だった。「死」を意識した人間にとっての未来は不確実性でしかない。その日暮らしへの憧れは、まじめに生きてきた人間こそ強いのだろう。私は主人公の心情をこのように理解する。

 

 

「 未来を生きる」か。「今を生きる」か。

 ヒッチハイクの旅の末、デンバーへ到着した主人公は、真っ先にディーンの元へ向かう。ホテルのドアをノックすると素っ裸のディーンが出てくる。彼と出会う時はいつもコトの最中だ。デンバーでのディーンは相変わらず破茶滅茶で、婚約者と寝た数時間後、愛人と寝て、また数時間したら夜の街へ消えてゆく。まともに睡眠をとらずに遊び歩く生活を続けていた。主人公にとってディーンは全く別の星の人間で、だからこそ惹かれてゆくのだけど、ディーンは生まれながらにそうだったのかというと、そうでもない。

ディーンがデンバーへ来たもう一つの理由は、父親を探すことだった。彼がまだ小さい頃、父親が家を出た。彼は、父親がデンバーで物乞いをしているという情報を聞きつけていたのだ。いつも明るいディーンだったが、父親や家族の話になると寂しそうな顔を見せた。幼少期に受けた”寂しさ”や”喪失感”が、彼をそのような人間にさせたのかもしれない。そういえば若き日のジョン・レノンも同じだったな、と私は思った。

対して主人公は両親の愛に包まれて育ったが、父親の死をきっかけにディーンと出会うことになる。正反対の二人は父親を失ったという点では共通している。違うのは、どういう別れ方をしたか、という点だろうか。

 

主人公とディーンがデンバーで再会してからすぐに、彼らはディーンの愛人と数人の友人らと共に大陸横断の旅に出ることになる。

酒とタバコ、ドラッグとセックスに明け暮れる旅を続ける中で、次第に仲間は目を覚ましていき、この快楽は幻想だと説得を始める。最初は誰もその言葉を真に受けないのだが、次第にひとり、また一人とそれぞれの生活に戻ってゆく。愛人もディーンが婚約者の元へ戻るつもりであることを知ると、離れて行ってしまった。

それから数年後、主人公は再びディーンに会いに行く。

ディーンは結婚して小さな子供を持ち、奥さんはお腹に第二子を授かっていた。

しかしディーンは、念願だったはずの幸せを手に入れたのに退屈していた。あるいはその幸せを享受する術を知らなかったのかもしれない。子守もせずに出歩くことが増え、ついに家を追い出されてしまう。彼は父親と同じ過ちを踏んでしまうのだ。こうしてディーンは自分を慕っていた人々を失ってしまう。主人公だけは最後までディーンと旅を続けるのだが、メキシコで主人公が赤痢に倒れたことをきっかけに、ディーンは親友の主人公をも見捨て、on the roadの旅は終わる。

 

数十年後、主人公とディーンは偶然ニューヨークで再会するのだが、この映画の見所はこのシーンだと思う。

私はこのシーンを観るまで、感想をわざわざまとめておこうとは思わなかった。むしろ映画の中に描かれる”退廃”に少しウンザリしていた。

しかし、最後のふたりの再会シーンを観て、なにやらこの映画にはメッセージがあることに気づき、先頭から改めて再生せざるを得なかったのである。

そのシーンについては、興味のある人は実際に観て頂きたいと思うので、敢えてここには書かない。

結論から言えば、私が思う『オン・ザ・ロード』の主題は、「未来を生きる」か。「今を生きる」か。その二者択一、どちらかにしか人は生きられないということである。

ディーンのように「今を生きる」人間は、その生活から逃れ、未来には生きられない。妻や子供のために自分の今を犠牲にすることができなかったように、未来のために今を犠牲にできないのだ。

反対に主人公は常に未来を見てきた人間だ。将来への不安から逃れられず、「今」は未来の自分のため、犠牲にしてきた。そのような人間が、「今」を生きようとしても、結局はあっち側の人間にはなれない。分不相応なのだ。

私は主人公の立場に立ち、それでも夢を見させてくれよと叫びたいのだが、思い返してみると、無茶しようにもしきれない自分というものは確かに存在している。呑み会ですら明日のことを考えてしまうのだから、もう最悪だ。このハンパさは一種のコンプレックスなのだけど、私がいくら取り繕ってみても、本当の意味で今を生きることはできないのかもしれない。その事だけは憶えておけよ。と、この映画に言われた気がした。

しかし、私の”その日暮らし”に対する興味は、だからこそ存在するのかもしれない。自分がそこに身を置いてないからこそ、違う世界を恐いもの見たさで覗いてみたいと思うのだろう。ミネソタで辛口フォークをやっていたボブディランにも、そうゆう感情はあったのではなかろうか。これは私の推測に過ぎない。

いずれにせよ、ディランがこの小説に影響を受けた理由は少しわかった気がするが、続きは小説を読んでからにしたいと思う。

今日はこのへんで。