ディラン好きの日記

転がる石のように

「奥田民生になりたいボーイ」は奥田民生になれたのか?

 

最近、僕の中で「奥田民生」熱が再燃しています。 

(久しぶりに聴いた『さすらい』がきっかけで)



あ〜これだよこれ。

この歌い方と脱力感。

やっぱかっこいいなぁ。

ヒゲがいいんだよなぁ。

 

奥田民生の良さを再認識しながら、思い出しました。

そーいえば僕は、奥田民生になりたいボーイだったな、と。

だらっとしているけど、キメるとこは決める。「こだわりは持たない」「なんでもいいよ」というけど、本当はすごくこだわってる。敢えて表に出さないだけ。

奥田民生の ”カッコつけないけどカッコイイ” に、僕は憧れていました。

 

そんなわけで、前々からタイトルがやけに気になっていたものを読んだので、ちょっと感想を書いておこうと思います。個人的には久しぶりの漫画でした。(ネタバレあり)

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール

 

ライフスタイル系は嘘っぽい?

主人公のコーロキはおしゃれ系ライフスタイル雑誌『マレ』の編集部へ異動してきた35歳(独身)です。元はガジェット系家電雑誌の編集者で、仕事は真面目に取り組み、中堅としてそこそこデキる。いわゆるフツーの男でした。

 移動してすぐに開かれた編集長の家でのホームパーティで、コーロキは『マレ』編集部の人々に度肝を抜かれます。そこでは流行を先取りしたおしゃれなワード、サブカル系の話題だけが飛び交い、コーロキは話に全くついて行けません。好きな歌手を聞かれたコーロキが「奥田民生が好きです」と答えても話は広がらず、話題はすぐにコーロキの知らないインディーズバンドの話題に移ってしまいます。

コーロキは家電雑誌編集部との、あまりの雰囲気の違いに、これから先やっていけるのか不安になります。それでも話題に出た歌手を復習したりして、必死に『マレ』編集部に馴染もうと努力します。

コーロキがホームパーティで感じたおしゃれピープルに対する違和感は、僕も感じることがあります。「○○的なバイブスで」とか言われてもよくわかんないし、オーガニックへのこだわりを語られてもついて行けません。

僕もコーロキと同じく、奥田民生派の人間です。

それにしても、上記のような人々と”馴染めない”と感じてしまうのは何故なのでしょうか。

作品中に出てくる書店にいたカップルの会話で、リアリストの彼氏が言っていたちょっとイヤミなセリフが本質をついていた気がするので引用してみます。

(雑誌『マレ』を見て)でも...こーゆうのはライフ「スタイル」だから!「ライフ」じゃねーから![中略]

「そーいうコトしてるワタシがオシャレ」ってコトでしょ?「スタイル」だから、そこに「本質」はねーから![中略]

オレはこーゆう「外ヅラ」っぽいのはイヤだね〜

もっと本質的で大事なことを読みてーよなー

つまり、ライフスタイル雑誌が示すのは、一つの理想的な「スタイル」であるので、現実的じゃないばかりか、それを目指そうとすること自体が目的となって周囲にアピールしているのは「外ヅラ」っぽくて本質的ではない、ということです。

例えばミニマリストに対する論争※1で、モノを切り詰めて生活しているのが幸せそうに見えなくなったのは、「無駄なものを省いてスッキリ暮らしていこう」という本質から、いつしかどれだけ物を減らせたかの競争をすることが目的となってしまった人が、目につくようになったからではないかと思います。それでミニマリスト同士寄り集まって、「ミニマリスト最高ー!」っていうのがどうも胡散臭く見えてしまった。

 

サブカルクソ野郎の定義はよくわかりませんが、その界隈にも同じようなことを感じます。僕はナナオクさんの桃太郎シリーズが好きですけど、中でも一番気に入っているのは「サブカルだらけの桃太郎」です。

7oku.hatenablog.com

これが笑えてしまうのは、サブカル方面の人々を一歩引いた目で見てしまっているからでしょう。バカにしているわけではないんだけど、なんだか微笑ましい。その裏にも、「こーゆうコトしてる俺(私)ってクールでしょう?」を感じてしまう、というのがあります。

同じように主人公のコーロキは『マレ』編集部の人達に対して、どこか浮ついた印象を持っていました。それは実際に、一緒に雑誌を作り上げていく中で思い直すようになるのですが、一見、本質を見失い、外ヅラっぽく見えてしまっていたのです。

(ちなみにライフスタイル系雑誌がバカにされてしまう理由については、チェコ好きさんがこの本の感想とともに考察してくれています。)

aniram-czech.hatenablog.com

これに対して奥田民生は、周りに流されず、人目も気にしない。言わば流行に敏感なオシャレピープルとは対極にあるような人であり、そのような所にコーロキをはじめとした「奥田民生になりたいボーイ」は憧れるのです。

 

コーロキが仕事に打ち込み始めた頃、雑誌の撮影で天海というプレスの女性と出会う事になります。これが「出会う男すべて狂わせるガール」です。

コーロキは天海に一目惚れをし、ひょんなことから付き合うことになるのですが、これをきっかけに仕事も恋愛も、うまくいかなくなっていきます。

天海と付き合うようになってから身も心もすり減らしていくコーロキは、現状と自分が目指した奥田民生とのギャップにさらに自己嫌悪に陥っていきました。

 

 

 

そもそも僕たちは奥田民生になれるのか

青年期から奥田民生に憧れ続けて、すべてのアルバムを聴き、グラサンに半ズボン、センター分けと、ファッションを真似たこともあったコーロキですが、今となっては自分の仕事を他人にコントロールされ、一目惚れした彼女に嫌われたくないという一心で機嫌を伺い、あらゆることが裏目に出てしまいました。ここまで奥田民生に憧れ、奥田民生を目指してきた主人公がまるで奥田民生からかけ離れた生き方をしてしまうというのは皮肉なことです。

コーロキは、奥田民生の背中を追いかけようと必死でした。努力もしてたと思います。

しかし奥田民生を目指して頑張っちゃうこと自体が、奥田民生なら絶対にしないこと、すなわち奥田民生っぽくないことです。

流行に敏感なおしゃれピープルが、必死で流行の先取りをアピールする姿が滑稽なように、必死で奥田民生になろうとする、というのも同じく滑稽で、どちらもそのものの本質を見失ってしまっているということなのでしょう。

私がこの漫画を通じて思ったのは、「奥田民生」も「ライフスタイル系雑誌」も「スタイル」であるという点は同じなのかな、ということです。

最初にスタイルを作った第一人者というのは、その存在自体が本質になるので良いですが、それを後から追う僕たちは、どうしてもそこへはたどり着けません。所詮真似ごとになってしまいます。そうしてみると、おしゃれスタイル系やミニマリストが、それを追う中で本質を見失ってしまう気持ちもわかる気がしてきます。これはコーロキが奥田民生を目指して全く奥田民生の本質ではない方向へ向かったのと、構造的には同じなのです。

したがって「スタイル」の行く末は、同じ道を目指す者同士コミュニティを作って対処していくことになるのでしょう。それが端から見れば、本質を見失って滑稽に見える、というだけの話です。

「 奥田民生」は「スタイル」

そこをはき違えると苦しむよ?っていうのを作者はコーロキを通じて伝えたかったのではないでしょうか。

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「奥田民生になりたいボーイ」は、奥田民生にはなれませんでした。

それを目指す過程というのは、”自然体のまま”という奥田民生の生き様とは矛盾が生じてしまうからです。

だから僕らは、

奥田民生ってかっこいいよね〜

ヒゲがいいんだよな〜

と憧れているぐらいが、最高にちょうど良いんだと思います。(ライフスタイル系雑誌を楽しむのと同じように)

 

この漫画、不思議なもので最後まで読むと、作者である渋谷直角の自伝かな?と思えてきます。最後のコマなんかはちょっと込み上げてくるものもありました。途中、サイコサスペンス的な要素もあり読んでて飽きのこない作品でした。

 

※1一時期はてなで高まったミニマリストへの批判。この頃多くのミニマリストを名乗るブログが炎上した。