ディラン好きの日記

転がる石のように

朝井リョウ著『何者』の感想

 
直木賞受賞作、朝井リョウさんの『何者』を読んだ。
テーマが就活、ツイッターということで、前々から気になっていた作品だ。
朝井さんは平成生まれで、私と同世代だということも、気になっていた理由のひとつだと思う。私が大学へ入学した頃はミクシィが衰退し、ちょうどツイッターやフェイスブックが流行りだしていたから、この世代にはイメージしやすい内容だと思う。逆にもっと前の世代の人にとっては、「何?この世界、気持ち悪っ」と感じるかもしれない。そこら辺をわざわざ説明しようとしないところに、作者の度胸を感じた。
 
私自身がどストライクの世代だからか、この物語には妙にリアリティを感じた。フィクションでありノンフィクション、というのが端的な感想である。大学生活を取り巻くバイト、サークル、恋愛、就活、ひとつひとつの描写が洗練され、現実の世界とリンクしている。だから自然と入り込んでしまって、気付いたら「この登場人物は◯◯っぽいな」とか、「自分は誰それタイプだな」というように、自分の周囲の人を登場人物に置き換えていて、当事者感覚で読まされる。
登場人物の仕草、性格といったものも細かく、周到に描写されている。冷静に傍観者であろうとする主人公の拓人、気遣いが出来て努力家な端月、いわゆる意識高い系の理香、お調子者だが何事もうまくこなしてしまう光太郎、クリエイター気質の隆良、冷静で達観しているサワ先輩、『何者』はこの6人が織りなすサスペンスドラマだ。サスペンスと言っても、誰かが死ぬわけではないし、取り立てて事件が起こるわけでもない。それなのに、それよりもずっと、恐ろしい。
 
何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

 先に挙げたようにこの物語には、それぞれ異なるキャラを持った6人が登場する。

一応主役はいるのだが、誰かに比重が偏っているわけではなく、それぞれ物語の中で重要な立ち位置にいる。強いて言えば、主人公拓人のバイト先の先輩であるサワは就活という目標を共有していないため、少し異なる立場にいるくらいだ。読者は、この6人の中で自分は誰に当てはまるのか、自然と考えてしまう。同様に、他の5人についても、光太郎はアイツだ、とか、端月はあの子だ、というように当てはめていくことになる。作者は、読者にそう仕向けるのがうまい。
この5人は就活という目標のためだけに、偶然集まった人たちだ。
元々友達だった人もいれば、初対面の人もいる。付き合っているカップルもいれば、別れたカップルもいる。そのうちの一人に片想いしている人もいる。尊敬できる人もいる。生理的に合わない奴もいる。不安定で、ただでさえ複雑な集団が”就活”なんてものに立ち向かおうとするのだから、はじめっから上手くいくはずがない。
 
それだけじゃない。物語のkeyとなるツイッター。そんなものをフォローし合ってしまうものだから、見なくていいものを見てしまう。知らなくていいことを知ってしまう。こんな状況を自然に作り出してしまう作者は、巧みだ。
この本の中での、著者:朝井リョウ の立場ははっきりしている。総じて、自分を大きく見せようとしている人物には冷酷で、侮蔑の目が向けられ、そうでない人物には寛容だ。それは「想像力のない人は苦手」という言葉で主人公の口から度々発せられる。
ここに多くの読者は共感する。皆、自分を大きく見せようとするのはカッコ悪いことで、頑張っている過程を他人にアピールするのは滑稽なことだと知っているからだ。
明確に「正義」と「悪」を分けることで、私たちは安心して物語を読み進めることができる。意識高いアピールだとか理想ばかり語っている登場人物の言動に、こーゆうやついるわーと呆れる。
 
しかし、この物語の核心はこの先にある。
作者は私たちを主人公と同じ立場で安心させておいて、一気に奈落の底へ突き落とす。傍観者だと思っていたら、いつの間に当事者になっている。
きっと作者は日頃から、SNS上での過剰な自己アピールに違和感を覚えていたのだろうと思う。そのズレた行動をいつか徹底的に論破してやろうと、練っていたに違いない。
作者のすごいところは、そんなひねくれた自分自身をも客観視しているところで、結論は「自分が嫌いなタイプの奴らと自分は同類」として自らを戒めている。
この物語の主人公はかつての朝井リョウ、自分自身なんじゃないかと、勝手な妄想をしてしまう。何かを否定してやりたいという性格の悪さは、誰の心にも多少なりあるものだ。この奥底にしまっている感情を作者はあぶり出し、問い詰めるので、私たちは人間というものの怖さを改めて認識する。この本のテーマは、現実で私たちが直面する問題なのだ。この点において、『何者』はフィクションでありながら、ノンフィクションだと思う。

( ↑『何者』のその後を描いた続編らしい。こちらも気になる)
 
 最近、身近でツイッターやフェイスブックに投稿をする人はめっきり減ってしまった。
SNS離れが進んでいるようでけっこう寂しい。タイムラインに挙がるのは、シェアされたアメリカっぽい料理動画ばかりだ。
そんな私も、どちらかと言うと傍観者を決めこんでいる。
10年後のツイッターは、フェイスブックは、どうなっているのだろう、と思うことがある。人目を気にしてしまうのは日本人特有の...という分析はどうでもいいけれど、
評価を恐れて誰も投稿しなくなれば、そのサービスは衰退してしまう。
 
 でもきっと、無くなっていないだろう。
その理由は、根本的に人は誰かに評価されたい気持ちがあり、また、評価することによって、何者かになりたいという欲望から逃げられないから。
 
映画が現在上映中で賛否両論のようだけど、原作はなかなか面白かったよ。