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ディラン好きの日記

転がる石のように

私たちは認知症をどう理解すればいいのか

医療・福祉

 

みなさんは、認知症をどう理解していますか?

多くのメディアが取り上げるように、認知症になると日時、場所がわからなくなり、名前も忘れて、暴力的な性格に変わり、徘徊してしまう。

 

その様相は人間的な生活から逸したものとして感じられ、「認知症の人にはなにを言ってもわからない」「認知症になったらおわりだ…」といった諦めムードが漂っているように思います。

 

私は理学療法士というしごとをしている関係上、認知症の人と接する機会は日常的にあります。

一年目の頃、私は担当する患者さんに拒否的な態度をとられることがよくありました。

「歩きましょう」

「やだよ」

「そうおっしゃらず…一回行ってみましょうよ」

「(大声で)なんだよ、やだっつってんだろ!!!」

「…どうして嫌なんですか?」

「…」

こうなると、もう顔も合わせてくれません。

しかし、だからといって歩かせなくていいわけではありません。入院している以上、退院させるノルマがあります。

上司「なんでリハビリが進んでいないんだ」

私「すみません、拒否的でして…」

上司「それはお前の対応が悪いんじゃないのか?

   あと2週間で主治医は退院させる方針だ。なんとかしろ」

そのようなプレッシャーの中、私は「なにが悪かったんだろう…」と原因を考えるのですが、答えが見つからず、よく悩んでいました。

 

そんなとき、大井玄の『「痴呆老人」は何を見ているか』という本を手に取りました。

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

 

 

なにしろ直前の記憶が失われる、あるはずの物がない、ないはずの物がある、やったことをやってないと言われ、やっていないことをやったと責められるのです。そこでまず生じる情動は不安と苛立ちの混じったもので、すぐ怒りや悲しみにも転化します。    (本著より抜粋)

 

認知症は中核となる記憶障害に加え、妄想や抑うつ、せん妄、易怒的性格の変化など多岐にわたる周辺症状のため、複雑化してしまっています。

しかし、シンプルに記憶の障害だということを考えてみると、認知症患者が起こす行動の心理が少し理解できるようになります。

 

もし自分が、記憶にないことを「やったよね?」周囲に言われれば、否定するでしょうし、それが何度も続いて周りに責められたら、当然不安になります。

周りが感じる以上に、自分自身が「わたし、どうかしちゃったのかしら…」と不安になっているのです。

そこにあるはずのものが無い場合、そのようなありえない状況に辻褄を合わせるために、「あなたが盗んだ」などと言ってしまいます。これは物盗られ妄想といって、認知症が進むとよく見られる症状です。

これが例えば、廊下にしてある便を指差して、「こんなところにしちゃだめでしょ!」と責められた場合、そのような受け入れがたい現実に対して、増大した不安は怒りに変わります。

認知症患者は、慢性的にこのような環境に置かれているのです。

 

私は認知症の専門家ではないので、この複雑な病気を専門的に述べることはできません。ですが記憶の断絶を出発点とすれば、その不安、怒りが、私達にも想像しやすいのではないでしょうか。

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一年目の頃の私は、数々のプレッシャーから”身体的な結果”を出すことにこだわって、患者との関係をつくることを疎かにしていたんだと思います。

知らない人に一方的にやりたくもないことを押し付けられ、その不安が怒りを生み、”拒否”として表出された。それが私の失敗への分析です。

 

認知症によって外界とのつながりを断念した人にとっては、過去の記憶が1番確実に世界とつながれる拠り所となります。これが、過去への質問が有効とされる理由だと思います。

あとは楽しい情動の共有を積み重ねて、患者と私との間の記憶を創っていくことが、コミュニケーションの手段として有効だという認識を持っていますが、これについてはまた今度書いてみたいと思います。

 

その前にまず、認知症に置かれている状況を理解したい場合、この本はヒントになるかもしれません。